2009年11月27日

■東の町と西の町

 古くからいわれているように、長野の町は善光寺を中心にして発展してきた。メインストリートともいうべき中央通り、かつての北国街道が丹波島の渡しからほぼ北に善光寺の門前まで延び、ここから直角に東に曲がっている。
 門前町の典型ともいうべき長野は、善光寺を核として自然発生的に成長してきた町といっていい。そんな長野は、明治になって県庁が置かれ、新たに政治都市としての様相を見せるようになる。
 この時、長野の為政者たちはどんな方針のもとに都市計画をはじめたのか。このあたりのことをひじょうに明晰に分析した本があるので紹介する。加藤政洋氏が書いた『花街』(朝日新聞社)である。ちなみに加藤氏は長野県の出身である。
「善光寺の南北に延びる街路を都市の軸線として、そしてこの街路にちょうど十字架を描くように門前で直交する北国街道とに沿って市街地が形成されたことがわかる。」
 このへんは明治以前に自然にできた町並みなのであるが、明治になって設置された主要な施設(県庁、師範学校、中学校、市役所、警察署、監獄署、県会議事院、赤十字病院長野支部)はいずれも北国街道の西側に位置している。
 それでは北国街道の東側はどうかというと、江戸時代からの花街権堂があり、さらにその東に明治11年に設置された鶴賀新地がある。もともと遊廓は権堂にあったのだが、「明治天皇の巡幸に先だって明治11年に新設された」と加藤氏は述べている。はっきりとはいっていないが、この長野の都市計画は為政者の側からの意図的なものであったことを加藤さんは指摘しているようだ。
 明治の官僚たちの意識からすれば、新たに官庁をつくるにあたって、先行してある権堂の花街や鶴賀の遊廓からなるべく遠ざけようという意図がはたらいたであろうことは想像できる。たてまえを一番の規範としている官吏や教育者には、本音の世界である花街が近くにあることは都合が悪かったのだろう。
 もちろん彼らも花街には通ったことであろう。たてまえの世界に生きているものには本音の世界が必要なのだ。彼らはこの二つの世界をどうやって使い分けていたのか。中央通りはその二つの世界を分ける結界のような役目を果たしていたのかもしれない。



Posted by 南宜堂 at 09:51│Comments(0)
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