2012年12月15日

田村騒動記

時は元禄15年12月14日、赤穂浪士討ち入りの日であります。新暦でいうと1月末のようですから、雪が積もっていたというのも頷けます。討ち入りは深夜に行われたそうで、47人が徒党を組んで夜中に押し入るとは穏やかではない。卑怯のような気がします。
現在放映中の時代劇「薄桜記」はこの事件をモチーフにしたもので、どうも主人公丹下典膳は吉良の用心棒となるらしく、親友の堀部安兵衛と戦うことになりそうです。
発端は浅野内匠頭の刃傷なのですが、この原因がよくわからない。吉良のいじめが原因という説が有力で、これなら仇討ちもやむを得ないということなのですが、実際の所は内匠頭が神経を病んでいたという説もありますし、そうであれば吉良上野介はとんだとばっちりです。
いずれにせよ「薄桜記」を見ていますと、討ち入りは当然、討ち入りしなければ収まらないといった風潮ができていたようで、吉良邸もそれに備えています。いつの時代でもそういった流れはあるようで、今度の選挙も民主党は負けて当然、安倍だの石原だの橋下ならなんかやってくれるだろうといった風潮とよく似ているようです。国防軍ができて原発もどんどん稼働する世の中になっていくのでしょう。
話が忠臣蔵からそれてしまいました。この義挙の物語に大野九郎兵衛という仇役がいます。赤穂開城の際、絶対恭順を主張して逐電したという赤穂浪士好きから見たらとんでもない男なのですが、これが少々松代と関係があります。
大野は江戸に逃げて密かに暮らしていたようで、その息子もまた田村半右衛門の名で江戸で浪人をしていました。この半右衛門がどうしたいきさつからか松代藩に雇われ、財政再建を任されたのです。
半右衛門が取った政策というのが、領民には過酷な年貢を課し、藩士には徹底的な倹約を要求したということですから、大反発をくらい、ついには一揆を招いてしまいました。半右衛門は松代にはいられなくなり、坊主に変装して逃げ出したという結果となりました。この顛末を記した「田村騒動記」というのが松代に伝わっていますが、真偽のほどはわかりません。
田村騒動記



Posted by 南宜堂 at 08:45│Comments(0)
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